【伝説を紐解く】Solo il fato li vinse.
時は遡ること約70年前。1940年代後半、当時のイタリアで文句なしの最強チームだったクラブをご存知だろうか。ユヴェントスでもミランでもインテルでもない。我らがトーロだ。彼らはグランデ・トリノと呼ばれ、尊敬と畏怖の眼差しを向けられた。
グランデ・トリノの選手たち
しかし"グランデ・トリノ"とは何か。一体どんなチームだったのだろうか。約70年の歳月が過ぎた今彼らを知るには、データから目を背けるわけにはいかない。まずは彼らの遺した数字から見ていこう。
- 5 - 42/43シーズンからセリエA5連覇を達成
- 6年9ヶ月 - 43年1月31日から49年10月23日までホーム戦不敗神話を継続
- 125 - たった1シーズンの間に125ゴールを記録(47/48シーズン)
- 10 - 当時アッズーリのスタメン11人中10人がトーロの選手
彼らがなぜグランデと呼ばれるようになったかはこれらの数字で充分にお分かり頂けたはず。目を疑うようなデータだ。筆者も正直半信半疑で何度も確認した。これがイタリアサッカーの歴史に名を残すグランデ・トリノである。"Solo il fato li vinse(運命だけが彼らに勝つことができた)."全く持ってその通りである。
伝説たち
次はグランデ・トリノ最後のシーズンとなった1948/1949の主力メンバーを紹介したい。今から71年も前の話だ。当然実際に見たわけではないし、監督はどんな人だったか、どんな選手たちだったのかはもはや文章でしか残っていない。しかし伝説を語り継ぐのはサポーターの役目だ。筆者は今回、僭越ながらもその役目を果たしたい。
グランデ・トリノが採用していたフォーメーションはWMと呼ばれ当時最先端だった布陣だ。フィールドプレーヤー10人の点を結ぶとWMの文字が浮かび上がるためそう呼ばれるようになった。
48/49シーズンの基本フォーメーション
この時代のサッカーは攻撃のW、守備のMと完全に攻守分業型だったが、40年代後半のグランデ・トリノはメディアーノの2人が攻撃にも顔を出し、メッザーラの2人が守備にも貢献する戦術を採用。後述のエウゼビオ・カスティリアーノの得点数からもそれは明らかだ。3バックの左右を務めたアルド・バラリンとヴィルジリオ・マローゾも積極的に攻撃に参加するなど、チームとして非常に攻撃的なサッカーを志向していたことが見て取れる。
レスリー・リーヴスリー
イングランド国籍
享年37
在任期間1948年〜1949年
グランデ・トリノ最後の指揮官。現役時代はマンチェスター・ユナイテッドなどでサイドバックとして活躍した選手だった。1939年に現役を引退してから指導者の道に進み、47年にプリマヴェーラの指揮官としてトーロに入団。翌年にはトップチーム指揮官に内部昇格し、オリンピックのイタリア代表監督も務めた。事故の直前にはお隣ユヴェントスからオファーを受け取っていたそうだ。
ヴァレーリオ・バチガルーポ
イタリア代表(5試合出場)
享年25
在籍期間1945年〜1949年(137試合出場)
ゴール前で最後の砦となったグランデ・トリノの守護神。トーロでのデビュー戦は45年10月14日に行われたユヴェントスとのデルビーだった。プロ・ヴェルチェッリのホームスタジアムに今も名前が残るストライカー、シルヴィオ・ピオラに得点を許し負けはしたもののその試合からレギュラーを獲得した。身長は176cmとGKとしてはかなり小柄な部類に入るが、リゴーレをストップする事にかけて右に出る者は居なかったそう。アッズーリの正GKとして5キャップを刻んだ。
アルド・バラリン
イタリア代表(9試合出場)
享年27
在籍期間1945年〜1949年(149試合出場4得点)
トーロでは3バックの右を担当。攻守両面において最高の働きを見せられる器用な選手だったという。弟のディーノ・バラリンもトーロに第3GKとして所属しており、2人ともスペルガの悲劇で命を落とした。グランデ・トリノに名を連ねたバラリン兄弟の偉業を称え、彼らの出生地であるキオッジャの自治体は市営スタジアムに「スタディオ・アルド・エ・ディーノ・バラリン」と名前を付けた。
マリオ・リガモンティ
イタリア代表(3試合出場)
享年26
在籍期間1945年〜1949年(140試合出場1得点)
3バックの中央でプレーしたブレッシャ出身の勇猛果敢なディフェンソーレ。プリマヴェーラ時代にトーロがブレッシャから獲得し、そのまま45年にプロデビューを果たした。アッズーリには47年5月11日に行われたハンガリー戦で初キャップを記録したが、なんとその試合ではユヴェントス所属のGKルチーディオ・センティメンティ以外全員がトーロの選手だったそうだ。現在ブレッシャがホームスタジアムとして使用するスタディオ ・マリオ・リガモンティの名前は彼の功績を称えてのもの。
ヴィルジリオ・マローゾ
イタリア代表(7試合出場1得点)
享年23
在籍期間1945年〜1949年(103試合出場1得点)
トーロでは3バックの左を務めた。若くしてイタリアサッカーの歴史において最高の左サイドバックのひとりとして数えられ、ヨーロッパでも屈指のプレーヤーとして名高い選手だったらしい。非常にテクニカルな選手で、攻撃参加するサイドバックとしては先駆者的存在であった。グランデ・トリノのメンバーの中では末っ子だったため、「チット(小さな子の意)」と呼ばれ親しまれていたそうだ。49年2月27日に行われたポルトガル戦において、アッズーリの選手として最初で最後のゴールを決めた。
ジュゼッペ・グレーザル
イタリア代表(8試合出場1得点)
享年30
在籍期間1945年〜1949年(123試合出場16得点)
グランデ・トリノの司令塔。ダブルボランチの右を主に担当した。両利きであり、優れたテクニックとプレービジョンで当時イタリア屈指のゲームメイカーだったプレーヤーだ。相手選手の激しいプレッシャーを難なくいなす優れた反射神経から、愛称は「ガゼッラ(ガゼル)」。出身地トリエステには彼の名を冠したスタディオ ・ジュゼッペ・グレーザルがある。
エウゼビオ・カスティリアーノ
イタリア代表(7試合出場1得点)
享年28
在籍期間1945年〜1949年(115試合36得点)
グレーザルと欧州屈指のコンビを組んだメディアーノ。もともとメッザーラとしてプレーしていたが、晩年はやや下り目で起用されていた。上記のスタッツからも分かる通り非常に得点力に優れた選手で、トーロ加入1年目のシーズンには中盤の選手ながら公式戦20得点を記録。機を見た飛び出しからゴールを狙うチェントロカンピスタというプレースタイルは当時革新的であった。
エツィオ・ロイク
イタリア代表(9試合出場4得点)
享年29
在籍期間1942年〜1949年(176試合出場70得点)
フィウマーナでプロデビューを果たし、ミランやヴェネツィアなどで大暴れした後42年にグランデ・トリノの一員となった。トーロではWMフォーメーションの右メッザーラに当たるポジションでプレー。身長は178cmとそこまで上背は無いがフィジカルコンタクトに優れた選手だったらしく、ファイナルサードでの迫力あるプレーが持ち味だった。愛称は「エレファンテ(象)」。
ヴァレンティーノ・マッツォーラ
イタリア代表(12試合出場4得点)
享年30
在籍期間1942年〜1949年(195試合出場118得点)
グランデ・トリノの偉大なるカピターノにして象徴的存在。42年にロイクと共にヴェネツィアから加入した。彼がいかに偉大な選手だったかはトーロで195試合に出場し118得点を記録していることからも一目瞭然だろう。異常なまでの運動能力を備えていたと語られており、イタリアサッカーの歴史において「最も完全な選手」のひとりとして名高い。本職のメッザーラのみならずディフェンスラインやウイングなど様々なポジションでプレーしていたらしく、サッカーIQが飛び抜けて高かった事が窺える。ちなみに試合中、カピターノである彼がユニフォームの袖をまくるのはチームにエンジンを掛ける合図だったそうだ。インテルのレジェンドであるサンドロ・マッツォーラは彼の息子。
ロメオ・メンティ
イタリア代表(7試合出場5得点)
享年29
在籍期間1941年〜1949年(131試合出場54得点)
グランデ・トリノの右ウイング。16歳の時ヴィチェンツァでデビューし、41年にトーロに加入した。その後ミランやユーヴェ・スタビア、フィオレンティーナへのローンを経験し46年に復帰。そこからは右ウイングとして不動のポジションをモノに。アッズーリのデビュー戦は47年4月27日のスイス戦だったが、なんとこの試合でハットトリックを記録する活躍を見せている。彼の生前の功績を称えヴィチェンツァ、カステッランマーレ・ディ・スタビア、ネレト、そしてモンティキエーリのスタジアムに彼の名前が付いた。
グリエルモ・ガベット
イタリア代表(6試合出場5得点)
享年33
在籍期間1941年〜1949年(219試合出場122得点)
3トップの中央でゴールを量産したストライカー。トーロに加入する前はユヴェントスでプレーしており、トリノの両チームでスクデットを経験した数少ない選手のひとりである。ユヴェントスでは通算102ゴールで歴代11位、トーロでは122ゴールで歴代4位とトリノの街を代表するゴールマシーンであった。足元のテクニックに絶対的な自信を持っており、ドリブル突破が持ち味だったそう。アクロバティックなゴールも数多く決めており、アッズーリでもエースとして君臨した。
フランコ・オッソラ
イタリア国籍
享年27
在籍期間1939年〜1949年(176試合出場86得点)
17歳の時ヴァレーゼでデビューし、翌年トーロに引き抜かれた。アッズーリへの選出経験は無かったもののトーロでは通算86得点を記録しており、クラブ歴代9位のゴール数を誇っている。ポジションは主に左ウイング。キープ力に優れたアタッカンテだったらしく、彼からボールを奪えるディフェンダーはそう居なかったという。彼のデビューしたクラブであるヴァレーゼは現在スタディオ ・フランコ・オッソラをホームスタジアムとして使用中。
グランデトリノが遺したもの
1949年5月4日、リスボンで行われたベンフィカとの親善試合を終えてイタリアに帰国したグランデ・トリノ。彼らを悲劇が襲った。間も無くカゼッレ空港に到着するというところで、悪天候による視界不良が原因で機体はコントロールを誤る。そして機体は体勢を立て直すことも叶わず、トリノの丘陵地スペルガに墜落してしまったのである。
セリエA5連覇を目前にし、グランデ・トリノは突如としてこの世から去った。負傷などの影響で遠征メンバーから外れていた数名の選手は生存したが、残っていた公式戦4試合はプリマヴェーラの選手を中心に戦わざるを得なかった。
事故発生直後の現場の様子。トーロの選手・スタッフを含む乗員乗客全員が死亡した
トーロとの試合を残していたフィオレンティーナ、ジェノア、サンプドリア、パレルモの4チームはグランデ・トリノに敬意を表する意味を込め、トーロと同じくプリマヴェーラをピッチに送り込み試合に臨んだそうだが、いずれにせよカンピオーネたちを失ったショックは若き雄牛たちに伝染していてもおかしくはない。メンタル的にまともな試合ができなくても何ら不思議ではなかった。
しかし残る4試合をプリマヴェーラは全勝で終えた。見事に首位を守り抜いたのだ。急逝した偉大なる先輩たちの墓前にスクデットを。そのために若き戦士たちは戦った。そして見事に達成したのである。このメンタリティこそがトーロのユニフォームに今も残る、古きエンジ色の魂だ。
Forza Vecchio Cuore Granata.
戦え、古きエンジ色の魂よ。
機体が墜落したスペルガの丘にあるスペルガ大聖堂の裏に建立された慰霊碑。今も各地からカルチョファンが訪れている
古き魂とはグランデ・トリノの歴史。語り継ぎ、守り抜いてゆくべき誇りそのものである。クラブが今も謳い続ける"FVCG"。このフレーズは、偉大なる先人たちの魂が決して死んでなどいない事を意味しているのかもしれない。
グランデ・トリノが遺したのはグラナータの誇り。彼らがホームスタジアムとしていたスタディオ・フィラデルフィアをトーロが現在も練習場として使用しているのはそこに理由がある。誇り高きトーロの英雄たちを、グラナータに魅せられた我々ティフォージはこれからも語り継ぐだろう。